2014年
4月
21日
月
前回紹介した古い地図を使ったロゲイニング「世田谷今昔物語」に参加した。
自分で準備すると、どうしても現代の地図と見比べざるを得ない。今回は純粋な参加者なので、初見でのナヴィゲーションになる。数十万円も出して でかけるヨーロッパ気分が、たった1万円で味わえるのだ。知らず知らずのうちにわくわくしてしまう。大変な行事の多い一週間だったが、この日を励 みに乗り切ったようなものだ。
大会を控えて、できるだけ現代の地図を見ないようにしていたが、バス・電車もありということで、さすがに幹線道路くらいわからないとどうしよう もないと思って、ちら見した。東名高速が通っていることだけは頭の中に入れておいた。提供されたのは昭和初期の地図。多摩川南側の丘陵はまったく
造成のされていない里山で、多摩川北側も、このエリアはまだほとんど市街地化していない。丘陵地は等高線の中に身をおけるので簡単だろう。
スタートは砧浄水場のそば。いろいろ考えて結局北部の台地から反時計回りに回って、登戸で多摩川を渡り、多摩丘陵を下って溝口で戻ってくるとい うラフなプランを立てた。前半、武蔵野台地に開析された谷をあがってしまうと、地形のない台地が広がる。ここではかなり苦労した。ポイントは「古
い環八?」というコメントがあり、一所懸命今の環八の周囲を探してしまった。やっぱり歩測と丁寧なコンパスワークが必要なのだ。その後は台地を流 れる緩やかな谷や氾濫源の用水跡などがCP位置なので、地形が利用できる。微地形を現地で捉えるたびに、つくづく都市の中には地形の記憶が残って いることを感じる。そんな密やかな地形を捉える瞬間はぐっとくる。ナヴィゲーションで敏感になっているからこその快感だ。
目で見えるものだけでなく、見えないものも活用している。高さ5mにも満たない河岸段丘は等高線には現れないが、現地では分かる。これを用水の 流れ方から推測する、暗渠のふたのコンクリート板からその下にある用水の跡を推測する、形状から旧河川の蛇行跡だということを読み取り、現在にも
残る土地利用を推測する。これらはいずれも環境の規則性と、その知識を利用した推論だ。認知心理学ではこうした知識のことをスキーマと呼んでい る。私たちは日常の移動の際にもスキーマを使っているはずなのだが、地図がいい加減だとその利用に意識的にならざるを得ない。
2回前に「ナチュラル・ナヴィゲーション」という本を紹介したが、ナチュラルな情報を利用するのはなにも自然の中だけではない。そこに環境の規 則性があり、その知識を経験によって身につけていれば、目的のためにどう行動を組織化すべきかを考える時、そこにおのずとナチュラル・ナヴィゲー ションが生まれるのだ。
やみつきになりそうな遊びである。
コンクリートのふたから、そこが暗渠であり、昔は小川があったと分かる。このお地蔵様も、川の脇に建っていたのだろう。
これが遣った地図で、示したエリアは川崎市の多摩丘陵。昭和初期の1:25000
等高線がある丘陵地は実は簡単である。ここは自然公園になっている関係で、そのままのオリエンテーリング
2014年
2月
24日
月
昨秋、「東京時層地図」というIpadのアプリが出た。東京の明治初期から現代までの7時点での地図を、2枚、対照させながら見ることのできるアプリである。Ipadのアプリなので、様々な工夫がある。1方の地図を動かすと、他方も連動して動く。一方を拡大、縮小すれば、他方もそれに合わせて大きさが変わる。ソフトを購入した日は、日がな眺めて飽きなかった。
遊んでいるうちにひらめいた。この古地図を使って東京郊外でオリエンテーリングをしたらさぞかし面白かろう。何しろ、当時は渋谷ですら全くの農村+里山であった。明治期の地図に載っている建物、道路は、その多くが現存しない。一方で、地形は大規模は改変は少なく、結構頼れそうだ。また旧街道も「けもの道」のように、進むのは役立つが方向や距離を維持しながら使わないとロストの危険がある。それは裏を返せば、 等高線や地形を使ったナヴィゲーションの実践や練習が都市部でもできるということを意味する。
2月22日、「城南地形萌えラン」と称して、この試みを蒲田から大森の北西にある台地のエリアで実践した。馬込と呼ばれるこのエリアは、九十九(つくも)谷とも呼ばれている、武蔵野台地が開析されてできた複雑な尾根・谷と台地上の微地形が特徴的だ。
もちろん、地形だけでは十分ではない。谷はどんどん分岐する。谷を縁取る斜面もビルに隠れて見えない。そんな中で進路に自信を持つためには、方向確認も欠かせない。方向で谷筋を確認し、ときどき得られる眺めで地形の片鱗を確認し、正しい進路にいることや現在地を確認する。さな がら、東欧の広大な森の中でオリエンテーリングをやっている気分なのだ。
時には、現在の道も利用できる。清水窪と呼ばれる北千束の谷間から周辺から荏原町の北側にある旗岡八幡宮を目指した時だ。この区間は特徴の少な い台地を横切る。しかも旗岡八幡宮も台地上の緩やかな谷の北縁にあるなだらかな尾根上にある。いずれもナヴィゲーションが難しい場所だ。まずは、 比較的主要道らしい地図上の道をたどることを考えた。いずれにしろこの方向にいけば、洗足池から北東に向かって延びる細長い谷に出る。そこを チェックポイントにして、荏原の谷に慎重に入り、台地の下縁の傾斜変換をガイドラインにしながらその方向が南東から東に変わるところを捉えて、台 地にあがるというプランを立てた。大自然の中で地形を頼りに行うオリエンテーリングそのものだ。
清水窪から出ると、環七通りが走っていた。その方向を読み取ると、地図上の主要道に沿っている可能性が高い。環七を歩測で距離を維持しながら進 む。途中、右側の谷頭(こくとう)を確認できたらラッキーと思っていたが、実際に歩道の右脇の区画が5mほど低く、道路と直角方向に沢状に延びて いる谷頭のが確認できた。そこから少し方向を南に振って約500m。ここも、歩測をしてみると、ずばり500mが近づくところで、中原街道が左右 に延びる谷の中を通っているのが確認できた。
本格的なナヴィゲーションの練習として十分通用する。都市の仮面の下に隠された地形に対する感受性を高め、土地の歴史を偲ぶのにもいいプログラ ムだ。参加者の感想にも「地図1枚あるだけで、土地に対する見方が変わる」という感想が見られた。それまでただの坂道だった場所は、「台地になっ ているから、その側面にある斜面が見えている」といった地形を構造的に把握しようとする見方になる。私自身、いつの間にか、建物の蔭で見えない地 形を頭の中で常にイメージし、イメージ化された地形の中で走っているような気分になった。
4月19日には、「かるがもとーさん」という通称名をお持ちの世田谷在住のオリエンティアがやはり昭和初期の地図でロゲイニングをやるようだ。ぜひおすすめしたい。
2014年
2月
20日
木
イギリスの冒険家が書いた「ナチュラルナヴィゲーション」という本を読んでいる。ナチュラル、つまり磁石とか地図を使わずに、自然の中にある情 報のみを使って目的地に到達するのに使えるサインを紹介したものだ。太陽や星は方向を知る手がかりになるが、それすら時計があって初めて利用可能 な情報である。人工物なしにナヴィゲーションをする時には、植物から地形、動物の動きなどあらゆるものを効率的に利用しなければならない。そんな 前提で書かれているので、内容は博物学的に興味は沸いても、とても実用に結びつく代物には思えない。著者がナチュラル・ナビゲーションを講習して いるというのには驚いてしまう。しかも、ナビゲーションには、空間関係の知識が欠かせないが、それは本書にはほとんど出てこない。
この本が先日の朝日の書評に取り上げられていた。その中に「(自然の中にあるサインを使って自分の居場所をつかみ、また目的地に向かう行為で)地球とがっちりかみ合っているという感覚。それはGPSを使っていては絶対にえられない」という一節があった。半分納得したが、同時にこれは 「ナチュラルナヴィゲーション」とは対極にある考えでもある。
僕は、(マルチパスをまったく拾ってくれない)測量用のGPSを使って山の中で現在地をプロットし、地図を作る日々を送ったことがある。セミプロとして GPSの原理もある程度知っている。山に入るときには、スカイプロットで衛星の位置を確認し、なるべくいい条件で入る。それでも谷間ではぎりぎり 電波を拾えないことがある。スカイプロットを思い出し、腰を下ろして衛星電波が受信できるのを待つこともあれば、腰をくねくねしながら自分が見えない電波を感じ取ろうと努力していると、アンテナが衛星の電波を拾ってくれる瞬間もある。 自分があたかも 電波のセンサーになっているかのような錯覚にも陥る。やー、ここはだめ(うまく電波を拾えないだろうな)という嫌な感じになる。電波は、植生にも 影響されるので、植生を見ただけで、無意識に、「あ、電波取れそう」、などとも思う。相手はGPシステムという人工物だが、環境にあるナヴィゲーションの ための情報に対して最大限感受性を高めること、それはたぶん、私たちなら見逃してしまうような大地のサインに野生の人々が注目して現在地を理解しているのと同じことなのだろう。
この本に紹介されているような自然のサインのみに頼った冒険をするとは思えない現代のナヴィゲーターが、この本から学ぶことがあるとすれば、(コンパスやGPSを含めた人工)環境の中で課題解決に利用可能などんな些細な兆候でも見逃さず使うということだろう。また、それが可能な道具 (情報源)とのかかわり方をするという姿勢なのではないだろうか。たとえば渋谷で道に迷って駅に戻りたい時、地勢を知っていれば、どこにいるかは分からなくても傾斜が手がかりになる。渋谷駅は渋谷川の谷底にあるからだ。あるいはコンパス。確実かつ曖昧さなく北やその他の方向を示してくれる道具だが、それを手がかりに人間が特定の方向に進もうとすれば、構え方や視線の動かし方といった身体との微妙な関係が成否を左右す る。どんな道具でも、それを最大限に利用しようとすれば、その原理の理解とそれに裏付けられた繊細さが必要なのだ。
グーリー「ナチュラル・ナビゲーション」紀伊国屋書店
書評者:角幡唯介「自然の摂理 理解するための知恵」朝日新聞 2月9日
2013年
7月
24日
水
勤務校の自然体験の中で、ウォークラリー形式のハイキングをやることになっている。職員の最初の説明会の時に出された地図は、ルートがデフォル メした線で描かれているだけのイラストマップのような地図だった。精度の低い地図で活動が行われることは学校教育の中では希ではないし、それが即 リスクの増大につながる訳ではない。2回目の詳細な説明会ではちゃんとした地図が出てくるのだろうと考えた。ところが二回目の説明会でも出てきた のはイラストマップのみ。「これ、(安全管理をする)教員も同じ地図を使うのですか?」と聞くと、そうだという。さすがにそれは立場上首肯できな い。地形図にルートを書き込んだ地図を調製して教員には提供することにした。それで変化するリスクは人間の活動の中では無視できるものかもしれな い。しかし、社会科の授業では地図も扱うし、等高線もその内容に含まれている?日常生活ではそれを使う機会はないが、自然体験はそれを実際に使っ てみるよい機会なはず。確かに小学生の子どもの多くにはそれを読みこなすことは難しいだろうが、それでも可能なことはあるだろう。何より自ら地図 を読み取ることは、学校の教育目標とも一致する。もともと地図に対する教育は社会科の中でも体系的に行われているとは言い難いのだから、こんな ちょっとしたきっかけでも、地図に目覚める子どもが生まれれば、この世界を牽引する人材として育つかもしれない。
日本山岳協会遭難対策委員会での講演の時、勤務校の実態を話し、「しかし、それって学校教育全体の問題であり、ひいては国民の安全登山の大きな バリアですよね」的な発言をしたら、後日その問題提起で遭難対策委員の間でメールでの議論が沸騰したということを、ある委員の方が教えてくれた。 おそらく登山界だって、そこに問題意識を持っているのだと思う。だが、「地形図を使うべき」という議論だけでは、忙しい学校教育の先生は対応する ことができないだろう。地図をどうやって手に入れ、どのように加工するかのノウハウが必要だ。何より、その地図を使って子どもたちにどのような活 動が可能になるかを具体的に示さないと学校での地形図の利用は普及しないだろう。
僕が授業をするとすれば、いくつかの段階を踏む。実際に地図を使ってナヴィゲーションをすることは大人でも難しいので、まずはオンサイトのナ ヴィゲーション利用はあきらめる。地図から、自分が歩くべき道のりがどれくらいか、高低差がどれくらいかを把握させる。これは算数の勉強にもなる だろう。記号から、注意すべき場所を読み取るという活動も、小学校高学年ならある程度はできる。これらの課題を完全に解くことはできなくても、地 図からルートの特徴を読むことで、より主体的に活動に取り組み、また自らの安全を意識する事前準備ができるのではないだろうか。
2013年
7月
11日
木
NHKドラマ番組「ドクタージェネラル」は、総合診療を行う熟達した医師が出会ったケースをドラマ風に再現し、病名をゲストと回答者の研修医に 答えさせる医療エンターテイメントだ。
毎回、劇的だが、原因がすぐには分からない症例が紹介される。しかし、それに取り組む熟達医の思考方向は実はかなり単純で、しかもどの回も驚くほど共通性が高い。
観察される症状から、そのような症状を呈する病名を挙げる。そして他の症状から、候補の中でありえない病名を消していく。絞り込んだ候補には、他の特徴でクロスチェックを掛ける。もちろん、その背後には、候補を挙げるために必要な症状の観察もさることながら、可能性のある症状をもれなく挙げることができる幅広い知識が必要だ。可能性のある症状をもれなく挙げていればこそ、こうした背理法的方法が有用なのだ。
初めてこの番組を見た時、彼らの発想法が熟達したオリエンテーリング競技者の行っている方法に酷似していくることに衝撃を受けた。これといった特徴の少ない自然環境でナヴィゲーションをするオリエンテーリング競技者は、「ここだ」と思った場所にこだわらず、考えられる候補地を列挙するところから思考をスタートさせることがある。候補地を列挙することで、それらを見分けるために注目すべき特徴に着目することができ、それによって、候補を効果的に絞りこんでいくことができるのだ。
両者が似ているのは偶然だろうか。そうではないと思う。両者が扱う対象の持つ類似性、すなわち、一目でこれと分かる特徴がなく、相互に弁別が難しい中で、限られた手がかりによってそのうちのどれがもっとも可能性が高いかを見極めるタスクという点で両者は共通しているからなのだろう。
私たちは、こうした複雑な課題を解くことができるという点で、素晴らしい認知能力を持っているが、それは無条件で可能なのではない。候補やその比較という外的な道具を通して、着眼点を活性化することができる。医療もナヴィゲーションも、顕著な特徴が乏しいという環境の制約と同時に、その環境を道具として使っている。
2013年
7月
05日
金
6月下旬に国立登山研修所での研修の講師を務めた。ぼくが同所と関わるきっかけを作ってくれたKさんが整置の指導をした時の話しをしてくれた。曰く、登山地図や地形図みたいに大きな地図だと、地図を整置して、それで進行方向を定めてといっても、うまくいかないんです。それで、プレートを使う直進をつい指導してしまうんですよ、と。
確かに大きな地図の真ん中に自分の現在地があって、整置をしても、それだけで進路を正確に維持するのは意外と難しい。オリエンテーリングで整置が進行方向維持のテクニックとしてうまく機能するのも、もともと地図が小さいからだし、その地図をさらに今走っているルートに合わせて小さく折りたたんでいるからだ。さらに体の正面に水平に構える、上からのぞき込む、といった身体技法があればこそだ。その意味で、整置とは地図の持ち方のアイデアではあるが、そのアイデアはこれらの身体技法によって初めて具現化されているのだ。
同じようなことはベースプレートコンパスにも当てはまる。1・2・3は、まっすぐ進むための手順を標準化したものだが、実際にまっすぐ進もうとすれば、3の後にまっすぐ視線を上げて進行方向に目印を定めるという手順が欠かせない。純粋な情報処理活動に見えるルートの読み取りも、目線で確実にルートをなぞるという身体技法抜きには確実性を担保されない。
身体的行為によって知的行為が支えられているという考えは、現代の認知心理学では一つの常識になっている。地図利用スキルの指導は、改めてそのことを思い起こさせてくれる。
GPSの指導方法の検討でも、身体化されたスキルを意識化する必要性を感じた。登山研修所では今、ナヴィゲーションの指導の中にどうGPSを組み込むかで昨年来講師が研修とカリキュラムづくりを進めている。昨今スマホの発達によりGPSの導入は進んでいるが、下手をすれば、「GPSがあれば、地図なんか読めなくても・・・」といった風潮を助長しかねない。国立の研修所ともなればその影響力は大きいので、負の影響を勘案して、慎重になっているのだ。
登山用のGPSはカーナヴィゲーションとは違ってルート情報を備えていないし、ルート誘導機能も限定されている。基本的にはプランニングは自分でやらなければならない。電子コンパス内蔵機種でヘッドアップモードにしても、整置は若干遅れるし、小さな画面では精度が落ちる。それでも講師たちが難なくルート維持ができるのは、地形の特徴や植生についての知識を活用して進路を見いだしたり、多少それても、地表面の様子から逸脱を正確に把握し、目で見ている風景からどちらに進むべきかを判断できるからだ。GPSというハイテク機器も、その効率的利用も、実は身体化されたスキルが支えているのだ。
自分自身の熟達化によって不可視になっている身体技法を意識化し、それを目に見える形で指導場面に持ち込むことが、指導の質を高めてくれる。
2013年
5月
09日
木
2月に4人の知人を事故で失って以来、アウトドアにおけるリスクについて考えない日はなかった。折しも、僕は高所登山家へのインタビューから、彼らのリスクへの対処方略を抽出する研究に従事していた。高所登山家は、掛け値なしに「死と隣り合わせ」の活動をしている。私たちは彼らと同じことは決してできない。しかし、私たちもアウトドアで活動する時、「絶対ねんざしたくない」ではなく、「ねんざくらいは仕方ない」と思っているのではないだろうか。あるレベルまでのリスクは許容しているのだから、リスクの中でそれを制御しようとする彼らのアプローチは示唆的なはずだ。
主要な未踏峰がほとんどなくなってしまった現代の高所登山家は、装備を自ら制約したり、より困難なルートを開発して、不確実さを含むレベルに挑戦を高めることを意識的に行っている。そして、不確実さは楽しみの源となる。
問題は、不確実さの中でどうやってリスクをコントロールするかだ。高所登山家へのインタビューから、彼らが1つの前提と3つのフェーズでリスクを制御していることが明らかになった。一つの前提とは、①自然の中の活動には不確実性が不可避であること。そして3つのフェーズとは、②計画によるリスクの制御、③オンサイト(活動場面の中での)でのリスクの調整、そして④運への気づきによる省察だ。
不確実性の自覚とは、自分が従事している活動の結果が不確実なものであり、損害が希ではあっても起こりえると考えていることに加え、そのような結果は偶発的に発生してしまうことへの自覚である。当たり前のことのように思えるが、活動に際してこのことを明確に自覚できる人はそんなに多くない。この自覚があるからこそ、②と③のフェーズによる不確実性への制御へと意識が方向付けられる。計画によるリスクの制御とは、事前情報や過去の経験などを踏まえ、カタストロフィックな不確実性を回避することである。オンサイトでのリスクの調整とは、活動中に得られる情報によって損害を伴う結果が顕在化する前にその都度対応していくことである。運への気づきとは、たとえ事故がなくても、活動終了後に「あそこでこうなっていたら、重大な事故につながっていた」と思えるひやり・はっとに対して、事故がなかったのは運だと考え、運を制御のうちに置くための対処を進めることだ。
二つのフェーズによるコントロールが必要かつ有効なのは、次の理由による。複雑で曖昧な自然環境の中での活動では、事前にどんなトラブルが起こるかを100%予測することができず、計画だけでリスクをコントロールすることは現実的でない。それに対してオンサイトでは状況が限定されるので、起こりえるトラブルを予測することが容易になるからだ。一方で、オンサイトの判断だけでは、致命的な状態を避けられない。たとえば、裏山なら、雪が降ってきたら家に戻るというオンサイトの判断で十分だ。そこでは寒い・しもやけといった軽度のリスクはあるが、死ぬことはないだろう。だが、高山帯で十分な準備がなければ、雪に降られたら死ぬリスクもある。そうならないためには、事前に十分な防寒具を準備するといった計画的対応が必要となる。事前の計画は、こうした致命的状態に陥ることを回避してくれる。
オンサイトの判断で重要なことは、状況の変化に敏感になることと、そこに介入してシナリオを変化させることができるかを知っていることだ。それは決して、場当たり的な対応とか、いわゆる「臨機応変さ」ではない。
こう考えて見ると、優れたオリエンテーリング競技者がナヴィゲーションの中で行っている行為は、これと同じものだと分かる。彼らは、森の中では思い通りに進路を維持することが難しいと知っている。オリエンテーリング競技では、競技中、ミスに対する「頭の中のベルを鳴らす」ことが重要だと指摘される。これはリスクに直結する状況の変化に敏感になる事だと言える。それと同時に、その場では制御不能のミスを回避するために、事前のプランニングも重視されている。そして、レースが終われば、ミスをした時はもちろん、そうでない時もレースの詳細を振り返り、次につながる教訓を得 る。
ナヴィゲーションはリスク管理、とこれまで漠然と考えてきたが、自然の中でのリスクマネジメントを突き詰めて考えることでその確信はますます強くなった。
2013年
4月
03日
水
前回のコラムで触れた本で、ハイテクシステムのナヴィゲーションとして、カーナヴィゲーションを扱っている。2003年にはほぼ十分なレベルで実用化されたカーナヴィゲーションは、その後は、センサーを使った測位精度の向上、ルート検索の効率化、そしてガイダンス機能を充実させる方向で少しづつバージョンアップしていった。
ガイダンス機能とは、音声や画面で進むべきルートを示す機能だ。これが意外と難しい。交差点の形状を正しく伝えたり、適切なタイミングでそれを伝える際、適切なタイミングは、運転手のくせによって異なる。交差点の形状も直交の十字路ばかりでなく、場所によっては変形交差点があったり、中には右斜め前だけでも二つも道がある交差点もあるからだ。当時も、交差点の拡大表示や、鳥瞰図風の表示などで、ガイダンス機能をわかりやすくする工夫が見られたが、最近ではAR(拡張現実)による表示がカーナヴィゲーションや人ナヴィゲーションでも見られる。車の正面方向の画像をカメラで取得し、リアルタイムでその画像に進むべき方向を→で乗せるのが、カーナヴィゲーションにおける拡張現実の活用法の一つだ。ディスプレイに、実際と同じ風景が写され、それに矢印が載っているのだから、間違いようがない。邪魔者である地図(コラムno.89参照)を飼い慣らす工夫の一つと言える。
3月の最週末、奥武蔵ロゲイニングに出場した。一人でパトロールをする予定だったところが、「婚活に失敗」してパートナーが見つからなかったO嬢と一緒に回ることになった。ロゲイニング経験の多い彼女だが、ナヴィゲーションはまだまだ。前半は「ナヴィゲーション道場」を実施。スタートからしばらくは、丘陵を開いて作った造成地の、まだ家も建っていないエリアを走って、造成地の脇にある山にはいっていくというポイントの連続だっ た。
彼女にナヴィゲーションの練習をさせながら、時々アドバイスする。「ほら、ずっと向こうに山が見えるでしょ。ここからなら、あれがこのCPのある山だって簡単に分かる。そうしたら、その景色を覚えて、『あそこにいく』って思うの。景色の中で進むべき方向を決めておけば針路を見失いそうになっても、景色を頼りに進める。地図で読み取ったことはできるだけ景色に落とし込んでおくんだよ。」
私たちナヴィゲーターは、地図を飼い慣らすために拡張現実をずっと昔から使っていたのだ。そうだ、ミクロネシアのスターコンパスも、特定の島への進行方向を星の昇る/沈む方向に対応させた、一種の拡張現実なんじゃないか!
2013年
3月
22日
金
2003年に上梓した空間認知関係の本の文庫化にあたって、ナヴィゲーションや空間認知に関するこの10年の文献をフォローしてみた。2005年に世界選手権を主管した前後から実践活動に忙しくなってしまって、研究の先端に全く追いついていなかった。それを取り戻す、いいチャンスでもあ る。
この10年間に、この分野は大きな進歩を遂げた。特に著しいのが、神経生理学的な研究である。脳の海馬という場所に空間情報を符号化する機能が (少なくともラットには)あることはすでに1970年代に分かっていた。2000年前後から、人間においても海馬が空間認知やナヴィゲーションと 深い関係を持つという知見が、fMRIのような非侵襲的方法、脳機能に障害を持つ患者のデータや、個々の神経の活動を観察することでも得られた。 複雑な街路とそれに関する厳しいテストで知られるロンドンのタクシードライバの海馬が大きいというマグワイアらの研究は、そのわかりやすさもあっ て、一般にも知られた研究成果となった。
海馬には、「場所細胞」という特定の場所に対して反応する細胞があるだけでなく、海馬とその周辺の脳領域に、特定の方向に向いている時に反応す る「頭方位細胞」、遠くにある区域の境界の方向と距離に反応する「境界ベクトル細胞」、格子状の場所に対して反応する格子細胞、さらには景観に反 応する景観細胞、といった空間の諸要素に対応する神経細胞があることが明らかになった。これらがどのような入力を得て、全体としてどのように機能 し、空間の記憶やナヴィゲーションが可能になっているかはまだ明らかになっていない。
一方、動物のナヴィゲーションに関する研究も1990年代までの成果は、1996年に発刊されたJournal of Experimental Biology (199巻)に詳しく紹介されているが、その後も多くの研究の蓄積があった。長距離を移動する渡り鳥、ウミガメ、魚などのナヴィゲーションは、不思議な能 力として捉えられてきたが、鳥に関しては地磁気だけでなく、星座や太陽の偏光をコンパス代わりにするといった知見が得られている。それと同時に、 目標地点のそばでは、よく目立つ目印が利用されていることも明らかになった。
目印の利用に関しては、ハチやハエの一種では、目標地点のそばで振り返ってジグザグに移動する行動が見られることから、目標の外観についてのsnapshotが記憶として蓄えられ、目標地点に再訪する時に利用されていることが分かっている。森に棲むアリの一種にも、振り返って目標を確 認する行動が見られる。経路を振り返ることがそれを逆にたどる際に役立つことは、実験的にも示されているし、方向オンチの人へのアドバイスにも利 用される。アリは誰からアドバイスを受けたのだろう!?
領域によって研究方法は違うし、対象も違う。だが、それらには一定の共通性がみられる。たとえば、文化人類学的な研究からは、島影が見えない海 域で長距離の航海をする人々は、架空の島を使って、航路を取り巻くような図形を思い浮かべると同時に、自分のいる位置をやはり見えない(あるいは 架空の)島の方角を使って表現する。もし境界ベクトル細胞が場所細胞の発火をコントロールしているとするなら、この方法は、自分の居場所を表象す るより原理的な方法であると同時に、目印が利用できない環境での生理的にも基盤を持った有効な方法である。あるいは、ハチのsnapshotによ るナヴィゲーションは、小惑星探査機が、地球から3億キロの彼方で100m程度の精度で小惑星に近づく時の方法に似ている。場所を明確に同定する もののない空間内でのナヴィゲーションを限られたリソースで行おうとすると、この方法がもっとも有効なことが、種と移動距離を超えて同じ方法を採 用させることになるのだろう。人や動物がどうやってナヴィゲーションをするかは、環境と可能な神経生理的なメカニズムの相互作用の中にあるのだろ う。
先日、大島のロゲイニングに参加した時、特徴のない裏砂漠の中で、小さな目標地点に向かう時、無意識のうちに、周囲に見える外輪山の見えを利用 して自分の位置を確認しながら、ポイントに近づこうとしているのに気づいた。ハチとはやぶさに、同じナヴィゲーターとしての同志意識を感じた。
大島の裏砂漠で、ハチかはやぶさになった気分で、チェックポイントをめざす。
2013年
2月
18日
月
今年も朝霧野外活動センターで、ナヴィゲーションとリスクマネジメントをテーマとする野外活動指導者研修会を実施した。研修会の名称は地味だが、二つのテーマはいずれも現代の野外活動、いや社会のキーワードになりえる。実際参加者も野外活動指導者から、コアなアウトドア活動者まで、バラエティーに富んでいた。研修を準備、実施していて発見したことが二つあった。
一つは、ナヴィゲーションは、アウトドアに必要なハードスキルとソフトスキルを媒介する位置にあるスキルだと、研修を準備していて再認識したこと。ハードスキルとは具体的な物を対象としたスキルで、生活技術と言い換えることができる。一方ソフトスキルは、コミュニケーションや考え方など、まさに「ソフトな」スキルである。地図やコンパスの使い方を覚えなければならないという意味で、ナヴィゲーションはハードスキルだ。特にコンパスの基本はハードスキルそのものだ。一方で、ナヴィゲーションは用具についての知識・スキルだけで可能になる訳ではない。計画→ルート維持→現在地の把握と整理された形で地図やコンパスの情報を使うこと、その場に応じて重要な情報に着目すること、さらには論理的に考えて情報の不十分さを補うこと。いずれもソフトなスキルだ。ナヴィゲーションがソフトとハードの中間に位置するのは、それが地図とコンパスという情報を使うからだろう。そう考えると、野外活動におけるナヴィゲーションの重要性を再認識できる。
もう一つの発見は屋外実技の振り返り時に得られた。二日目は、朝から屋外で読図やナヴィゲーションスキルの実習を行った。僕の班は前の晩から迷った末、標高で約150m差あるピークに登ることにした。それ自体は読図講習としては退屈で辛い行程だが、登れば、幾重にも分岐する尾根下りが待っている。視界は適度で、通行可能度は悪くないはず。登山を行っている人や野外活動指導者が多い僕の班は、他の時間を犠牲にしてもそれをする価値があるはず。
確かにのぼりは辛かったし、午後の時間に30分以上ずれ込んだが、それに見合うご褒美はあった。尾根の下りでは、その難しさや、それでも等高線を丁寧に読めばそれがクリアできることを、参加者は実感してくれた。何より、普通の女の子然とした若い女性指導者が、「(等高線が)私分かるかも!」と楽しそうにしていたのが、僕にとってはご褒美だった。
振り替り時には、もっと興味深いことが起こった。振り返りでは、昼間の実習を踏まえて、自分たちで与えられたルートで読図講習を計画した。僕が担当した3班の3グループと、このグループについたセンターのスタッフのグループは、ことごとく、必然性もない山に登って下るルートを講習計画に入れた。普段読図講習を受けている訳ではない彼らにとって、読図講習とは、ピークに登って尾根に下るもの、そういう刷り込みがあったのかもしれない。子どもや親に似るんですよ、とセンターのスタッフに言われて、こそばゆい感じがした。それは、山に登ったことが楽しかったことの証でもあるのだろう
2012年
10月
16日
火
ロゲイニングの世界選手権でチェコを訪れた。交通不便な場所なので、移動は全てレンタカーで行った。初めての外国だって、地図があれば迷うことはない。もっともいくら地図読みに長けていても、運転中に地図を読むことはできないから、助手席のTさんに地図読みを任せる。
ロゲイニングのパートナーであり、オリエンテーリングでも日本代表にもなる実績の女性だが、どうもうまくかみ合わない。街に入る時には、チェコ全体が出ている小縮尺の地図から、街の大縮尺の地図に切り替える。彼女はそれがうまくできなくて、しばらくどこにいるか分からない状態になった。そうであることを伝えてくれないので、自分の居場所もよくわからない状態で無駄に走ることになる。また、この先の概略を伝えてくれない。地図を読んでいる彼女にとっては自明に思える方向も、こちらは全く情報がないので、不安になる。2000年ごろベストセラーになった「地図が読めない女、話が聞けない男」で、助手席でナヴィゲーターをする妻と夫婦げんかになるシーンが描写されている。まさにこんな雰囲気なのだろう。
冷静に分析してみると、この体験は、地図の読み方について、いくつもの示唆を与えてくれる。第一に、自分がどこにいるかを把握していないと、地図の情報もうまく使えないということだ。第二に、今自分がいる場所の情報とともに、この先どのようになるかを知っておくことが、不安なくナヴィゲーションをする上では欠かせないということだ。
地図から読み取った情報を人に伝えてナヴィゲーションしてもらうと、自分のナヴィゲーションの癖や地図読み取り上の課題を明確にできる。運転技術をブラッシュアップさせるコメンタリードライブという方法がある。これは運転中見ているものやそれに基づく判断を言語化(コメンタリー)しながら運転することで、自分の癖を知り、運転(特に着目点や判断)を改善することができるというものである。助手席でのナヴィゲーター役も、ある意味コメンタリードライビングに近い。
道案内も助手席のナヴィゲーター役も、一種の地図情報の伝達と考えることができる。ナヴィゲーションのための情報を人に伝え、実際に不安なくその道を歩けるかどうかを確認してもらうことは、地図から自分が適切な情報を読み取れているかのよい確認になる。Mnop登録スタッフの小泉君は、これを応用して、コミュニケーションを振り返る研修に活用している。その成果は、7月に放送されたNHKの朝イチで取り上げられている。
2012年
8月
03日
金
最近なるべく方向音痴番組に出るのを控えていたのだが、うっかりして出ることになってしまった。お相手してくれたのは地図を見るのが苦手という主婦「八百幸」さん。おいしいパンには目がないのだが、地図が読めないがために、新規開拓もままならないという。そんな八百幸さんに地図読みの極意を教えるのが番組での僕の役割。それはそれで新鮮な体験であった。
駅前で出会って地図を渡して、ルートを考えてもらう。彼女の地図読みは、「地図が苦手」とはとても思えないものだった。ルートも一部修正したが、無理にわかりにくい直進ルートをいくのではなく、分かりやすい街路を通るものを選択した。出だしもスムースだった。もっともこれは、僕が無意識のうちに自分で整置してしまい、うっかりそのまま地図を渡してしまった影響が大きい。目的のパン屋や駅の南側にある。ノースアップで地図を渡されていたら、多分間違えていただろうとは彼女の弁。
「地図(そのもの)を読む」ことに関して、彼女には何の問題もなかった。問題があるとすれば、地図上のコンビニやファストフードといった些細な目標物にこだわって、それが見えないと不安になってしまう点だった。彼女は「地図で不正確だから」と言う。その通り。いやむしろ現実を縮小した地図は「不正確」の塊だ。地図がほんとうに「現実通り」だったら、それはもはや地図としての用をなさない。そんな寓話的なショートストーリーが実際にある。何が不正確で何が頼れるか、それを知ることが地図を(現実の中で)読む、そして使う上で不可欠なのだ。
そう教えながら、3月に奈良女子大に身体運動学のセミナーに出向いた時、昔からの研究仲間が、「地図は邪魔者ってことです」といった言葉を思い出した。実際に空間を経験し、それに基づき頭の中に記憶として作られた「地図」(専門用語でこれを認知地図と呼ぶ)なら、正確でありながらコンパクトで、自由自在に使える。だが、物理的実体として制約のある地図だからこそ、「不正確さ」について知り、整置で方向の間違いを押さえ、プランニングで危機管理をし、時には経験による知識で補い場所のイメージ化を図らなければならない。
彼の言葉に倣うなら、地図読みに習熟するとは、邪魔者である地図を飼い慣らすことに他ならない。
2012年
7月
01日
日
心理学に暗黙知という概念がある。計算方法なら、文字や言葉にして伝えることができる。だが自転車の乗り方を伝えることはできない。まさに自分で体得するしかないのだ。そのように獲得されたスキルやその背後にある知識のことを暗黙知と呼ぶ。
地図読みはどうだろう。少し前まで、僕は尾根線・谷線を引くことは、ある点を尾根・谷と同定できれば、その延長の単純なスキルと考えてきた、講習会でも「じゃあ、尾根線を引いてください」とのんきに言ってきた。その一方で、初級者がうまく尾根線を引けないことを不思議に思ってきた。初心者の誤解答を分析すると、実は自分が「暗黙知」、すなわち、等高線の曲率半径の最も小さい部分をとおり、その部分の等高線に垂直に線を引いて結ぶという知識を使っていることがあぶり出されてきた。そのことに気づいてしまうと、暗黙知はもはや「暗黙」ではなく、言語化してテキスト化することができる。ただ、依然としてそれはスキルなので、その言語情報を聞いただけではすぐに身に付かない(身に付く人もいる)のも事実だし、曲率半径の一番小さい部分を見つけること自体、暗黙知に支えられているのかもしれない。スキルは顕在化してもどこまでも暗黙の部分が残るタマネギのような構造をしている。
地図は明確な約束に基づく記号体系だから、上のように言語化/手続き化すれば、スキルのある程度の部分が顕在化されるかもしれない。しかし、混沌とした環境との相互作用を余儀なくされる実際のナヴィゲーションでは、どこまでいっても暗黙で有り続ける、タマネギ構造がきっとあるのだろう。
暗黙知の皮をきれいに一皮むけば、それは新しい指導法の確立として賞賛されるかもしれない。それは、教育をマニュアル化したという批判につながるかもしれないが、タマネギ構造を考えたら、常にその先に、実践を通して学習者が体得すべき暗黙知が待っていると言えるかもしれない。明確に教えてもらえる部分と暗黙知を体得しなければならないというバランスの上に、学ぶことの面白さも存在するのかもしれない。その意味では、地図とナヴィゲーションスキルの学習にはまだまだ暗黙知が多すぎる。
(参考:福島真人 (2001) 暗黙知の解剖:認知と社会のインターフェイス 金子書房)
2012年
6月
01日
金
クイックOというのは、位置関係だけを表現したシンプルな地図を使ったオリエンテーリングである。元々は地図を十分には読めない小学校低学年へのオリエンテーリングの導入用として開発されたゲームで、日本には三条OCの藤島君が積極的に導入した。昨年11月のオリエンテーリングin朝霧で彼のプログラムを見て、その可能性の大きさに気づいた。
第一に、子どもでもできると同時に、大人でも意外に楽しめるゲームだという点だ。クイックOの地図は、オリエンテーリングと呼ぶのがはばかられるくらい単純だ。ミスするわけがないと思う。ところがいざ自分がコースに入ってみると、次に向かうべきポイントの方向をしばしば見失う。中には自分の「現在地」が分からなくなる人もいる。これは心理学では整列効果という、地図と実際の方向がずれることで、正しい方向への移動が阻害される現象だ。ポイントで方向を変えた時に、地図の整置のタイミングが遅れることで発生するのだろう。そんな状態の中でミスなく回ることは意外と達成感がある。ナヴィゲーションスポーツとして対極に位置するロゲイニングと同じように、トップから初級者まで楽しめるプログラムである。
もう一つはその技術的可能性だ。東北大学での研修会の時にデモンストレーションをしてみた。その時指摘されたのは、整置の切り替えの仕方と次に出て行くポイントを一つ前のポイントに着く前に見ているという2点だった。前者は自分でも意識していたが、後者は自分でもそのときはじめて意識できた。幾何学図形から位置関係と動くべき方向を読み取り、それを実際の認知や動きと連動させること。これらはトップを目指す上では欠かせない身体技法なのだが、大局的なナヴィゲーションの中に埋もれて、中級者に意識させ(なおかつその効果を実感させること)が実は難しかった。クイックOはそれを実感させるとってもいい教材になるはずだ。
今年、部員獲得が至上命令の静大で、新勧にクイックOをやらせてみた。初日だけでもまずまずの成果があったらしい。楽しく奥深く、そして様々なシチュエーションで使える、クイックOは三拍子揃ったナヴィゲーション・ゲームだ。
2012年
3月
29日
木
2000年の雪庇崩落事故以降中止されていた国立登山研修所(当時は文部省登山研修所)の冬山登山が再開されて2年経つ。今回は事故のあった大日岳を目指すこととなった。もちろんこの間、様々な安全策の検討と実施がなされた。今回の登山にも、雪氷と気象の専門家が同行した。2年前に暫定的に再開された舞台であった大品山と比較すれば、大日岳には長い尾根を登る必要がある。きわめて危険な箇所はないが、ナヴィゲーション的には挑戦的で、取り組む意義のある課題である。しかも登頂を目指した当日は薄い霧がかかり、時には視界が50m程度に下がる条件下であった。同研修所の専門調査委員として同行し、主としてナヴィゲーションの側面から学生の行動観察をさせてもらった。
講師から課せられていた前日のプランニングでは、危険箇所の把握はまずまずできていたが、ルートについて言語化させてみると、方向の情報はほとんど言及されない。「方向は気にしないの?」と尋ねると、「夏山ではコンパスを見るようにしているが・・・」という。道を辿ることのできない冬山こそコンパスを見るべきなのだ。コンパスの利用と方向への意識は表裏一体だ。期せずして、その不十分な実態を知ることができた。冬山ならではの各種の装備、そして操作性を下げる冬用の手袋などもナヴィゲーション用具の利用を阻害しているかもしれない。
当日は、講師から現在地の確認を何度か求められていた。全く分からない訳ではないようだが、確信をもって「ここ」と言うには至らない。慣れない雪山を歩くので、足下を見がちなため、スカイラインを見ることができない。遠くの地形情報を使うことができないので、確信を持つことができない。雪の積もった冬山では、容易に先の地形を望むことができる。遠望できる地形を見てのナヴィゲーションは、冬山の「義務」でもあるとともに「権利」でもある。
方向に限らず、言語化の意識は低い。たとえば無線で今後の行動を報告するとき「尾根を下って、谷にでて・・・」と連絡してくる。これでは相手に正しく伝わらない。それはおそらく自分自身の未来に対しても正しく伝わっていないことを意味する(梅棹忠夫が、未来の自分は今の自分とは別人だからメモは丁寧に書くと語ったことを思い出す)。出発地点や方向を含めて、正確に記述できるようになることが必要だ。そのような記述をすることはナヴィゲーションのいいトレーニングになるのかもしれない。たとえば一人が固有名詞や数字を抜きにして、地図に書かれたルートを言葉にして、相手に伝え、相手がそのルートを地図上に書き表してみる。そんな伝言ゲームが、地図読みのスキルアップの役立つのではないだろうか。
2012年
3月
13日
火
一昨年、はやぶさが小惑星イトカワから少量の物質のサンプルリターンに成功したというニュースは憶えていた。「そんな大したことなのかなあ~」というのが、当時の正直な感想だった。
このところ映画化され、書店にいくと数種類の本が平積みになっている。その一冊に目を通して認識を新たにした。映画では「満身創痍」になったはやぶさを、地上の技術者・科学者たちが協力し、工夫して帰還させるところが泣かせどころになっている。工夫が生きるのも、数億キロのかなたにある人工物を、大きさたかだか100mスケールの小惑星にぴったりつける航法上の成功があればこそである。その意味ではやぶさの成功はナヴィゲーションの成功でもある。
手に取った本には二種類の航法上の工夫が紹介してあったが、胆はハイブリッドだ。複数の情報をうまく組み合わせて、地上との通信の30分近い時差という悪条件の中で精度の高いナヴィゲーションを達成したことにある。
まず接近フェーズでは電波航法と光学航法を組み合わせる。光学航法は、巡航ミサイルでも行われている。目標物の画像を解析して、周囲の風景との見え方の関係から軌道のずれを判断し修正する機能である。さらに近づいた近傍フェーズでは、もともとはやぶさが持っている画像解析機能を使ってイトカワの画像から重心を判断しそれを利用して接近する予定だった。しかし、イトカワはあまりにもイレギュラーな形をしている。このため、自律した画像解析は諦め、地上で支援しながら軌道修正を行うこととした。支援の方法が超原始的である。あらかじめ予定された軌道からのイトカワの見えを計算し、その計算結果と実際に送られてくる画像の違いから人間が目で見て修正すべき軌道方向を判断し、軌道修正を行う方法が採られた。
もともと画像解析は人間や動物が簡単にできるのに、コンピュータには非常に難しい。人間なら、対象の見え方の違いから、予定された位置からどのくらいずれているかを判断することははるかに容易なのだ。実際、動物から人間の海洋でのナヴィゲーションに至るまで、見えによる位置決めと修正によるナヴィゲーションは広く採用されている。この項を執筆した技術者は、プロジェクトリーダーの川口さんが「研究者には考えつかない方法ですね」という言葉を「技術者として最大の褒め言葉」と捉えている。多くの動物がほぼ生得的にこうしたスキルを使いこなしていることに不思議さを感じる。
2012年
3月
06日
火
昨年の日本心理学会の講演で、東北大の川島隆太先生が、「私は(研究で使っている)高磁場のfMRIを買うのに、皆様の税金は一銭も使っておりません」と胸を張っていた。任天堂のDS「大人の脳トレ」のロイヤリティーでまかなったということなのだ。ということは私も何億分の一かは貢献したということだ。
それほどまでに大人の脳トレが売れたのにはいくつかの理由が考えられる。高齢化社会で誰もが老化による脳の機能の低下への漠然とした不安を持ったこと、その低下を防ぐ簡単なトレーニングを提供したこと、そのことが科学的根拠を持って示されていること(これについては異論もある)等にある。加齢による脳の萎縮は特に前頭葉や海馬を中心を起こる。記憶力の低下は明らかにこうした脳の変化と関係がありそうだ。
最近、日本認知心理学会のシンポジウムで登山の効用の話しを頼まれ改めて調べてみると、ここ10年のうちに持久的運動によって脳の神経細胞の新生が促進されることや、それによって脳容積の増大が見られること、また認知機能の低下を抑制できるという研究成果が数多く出されていた。これらの多くは高齢者を対象としたものなので、運動すれば加齢に伴う知的能力の低下を抑制できるというのが適切なところだろう。
一方で、2000年前後にロンドンのタクシードライバーの海馬が、同等のタクシードライバー以外の人たちと比較して大きいことが神経生理学的な研究によって示された。ロンドンは非常に複雑な町で、タクシードライバーになるために厳しいテストを受けるという。海馬には空間記憶に関連した神経細胞があるし、神経細胞は実は大人になっても新生する。複雑な街の中を間違えずに移動するための空間情報処理が、海馬における神経新生をもたらし容量の増大につながったということなのだろう。
こうした最近の脳科学の成果を見てみると、地図を使って自然の中を一定時間以上動くオリエンテーリングやロゲイニングこそ、高齢化社会にうってつけの活動なんじゃないだろうか。ナヴィゲーションスポーツは空間的な判断が要求される上に、ルートのプランニングやチョイスといった判断も要求される。これはおそらく前頭葉も使っていることだろう。そういえば、いつかのヤマケイに地図を使う時に脳が活性化するという研究結果が出ていた。
「ナヴィゲーション・スポーツで脳も体も健康に!」
2012年
2月
23日
木
オリエンテーリングの中心にあるスキルを「ナヴィゲーション」として捉え直し、周辺スポーツとの接点を模索したら、様々な可能性が見えてきた。今やトレイルランナーから登山者まで、多くのアウトドア活動者が「ナヴィゲーションはなくてはならないスキル」と認識してくれるまでに至った。秋の大学公開講座では、初心者向けと銘打ったにもかかわらず、プロの野外活動指導者やインタープリターまで講習に参加した。もちろん、彼らの狙いはそのスキルを自分のものにして指導に生かすことなのだろうが、それ自体、ナヴィゲーションスキルの有用性が浸透した結果といえる。1月に行った指導者講習では、日本のトップクライマー、アドベンチャースポーツアスリート、地図の専門家まで様々な方が受講した。
ロゲイニングも、オリエンテーリングの可能性を広げてくれる。オリエンテーリングを、ルールで強く規定された3000m障害とするなら、ロゲイニングはジョギングと言える。3000m障害をいきなり志す初心者はいない。しかし、ジョギングなら始めてみようかと思うだろう。そして走ることが楽しくなった人が、いつか谷川真理のように、トップアスリートになるかもしれない。ジョギングという広い裾野があって初めて高い頂も生まれるのだ。そう思うと、これまでのオリエンテーリングのあり方こそが、特殊だったとも言える。過度に進化した結果「生殖能力」が衰えてしまった生物種のようでもある。
「ナヴィゲーション」というコンセプトはアウトドア界に浸透しつつある。ナヴィゲーションスキルにもっとも習熟した集団であるはずのオリエンテーリング愛好者が、ナヴィゲーションスキルの価値に最も気づいていないように思えて、残念でもある。
2011年
10月
07日
金
大学では、管理・運営的な仕事は「雑用」として嫌われる傾向にあるが、普段の仕事の中では得られない人間関係を作ったり、専門とはちょっと外れる知識を得るいい機会でもある。先日ある仕事で分野の違う研究者を面接する機会を得たが、その人の研究領域に「反事実的思考」というトピックがあることを知った。
反事実的思考とは、その名のとおり、「事実とは反することを考えること」であり、たとえば、もし私が女だとしたらどんな人生を歩む可能性があったか、などというのが反事実的思考である。反事実的思考が学業成績と関連があるのだそうだ。確かに事実と違うことを考えることは、願望を除けば、高度な脳の力を必要とすると思われる。事実の多くは眼前にある情報を元にしているからある意味受動的に思考が活性化される。一方反事実は、能動的に活性化しなければならないと同時に、それが事実でないことを認識していなければならない。さらにたいていの場合、反事実的思考は、単に事実とは違うことを思い浮かべるだけでなく、反事実がもたらす帰結を考えることにつながる。現実に自分の周りにないことを元にその帰結を考えるのだから、そこにはかなり創造的な過程が働いている可能性が高い。
反事実的思考というテーマを知った時、真っ先に思ったのは、これは熟練したナヴィゲーターが少ない情報で現在地を推論するときにとる思考様式と類似のものだという点だ。たとえば、尾根をずっと降りてきたが、正しい尾根にいるかどうか分からないという時、現在の尾根のことばかりでなく、他に可能性のある尾根にいることを考えてみると、案外、「もし**にいるとすれば、・・・が見えるが、それが見えないのでやはり**にいることはありえない」といった考え方をする。もし他の可能性を全て洗い出すことができ、一つ以外の可能性を全て却下できるなら、自分のいる場所が分かる。これは数学で言えば背理法という考え方と同じだ。
なぜ、反事実的思考ができるようになるのだろうか。一つには発達(年齢にともなう自然発生的な成長)があるらしいが、成人でも状況によってはできない人がいる。どんな課題やトレーニングを積めば、反事実的思考ができるようになるのだろうか。ナヴィゲーション上達や教育の鍵の一つがそんなところにありそうだ。
2011年
8月
22日
月
7月7日の全国遭難対策協議会の講演を依頼されたので、4年前の2007年に続いて、山岳遭難の現状を分析することにした。今回は全国全ての警察本部に情報提供を依頼し、37警察本部より山岳遭難データの提供を受けた。震災で多忙を極める県からも提供を受け、こちらが恐縮してしまった。結果として、全国の遭難件数の約75%、登山に限ると80%のデータを入手することができた。
結果の詳細は山と渓谷9月号に5pに渡り掲載したので、ここでは簡単にその概要を紹介しよう。
2010年の遭難は前年に比べて約300件という大幅な増加となり、2396名となった。遭難多発年代は60歳代である。中高年の遭難多発、とひとくくりにされているが、60歳代の遭難数は突出している。70歳代はその半数以下だし、50歳代も6割といったところだ。もちろん60歳代の登山人口も多いのだろうが、体力的な変化にも関わらず、まだまだ本人は元気だと思っているといった心身のギャップなども原因なのかもしれない。
道迷い遭難は男女を問わず、ほぼ全ての年代で最多の態様(原因)となった。特に40歳代以下では、他の態様に比べても突出している。これは現在の登山ブーム前の2007年にはみられなかった現象である。個々の事例を見ると、いわゆる山ガール・山ボーイが気軽に登山をして安易に救助要請をしているのではないかと思わせるものもあるが、全体として若年層の遭難の経緯がどうかという点については、残念ながら資料のみでは十分なことは言えない。
誰でも一度は経験があると思われる転倒が、50歳代-60歳代でピークとなる。これはバランス能力や筋力の低下にもかかわらず、この年代ではまだハードな山登りをするからだろう。しかも、転倒は意外にハイリスクで、重傷が半分を占める。
病気のリスクも60歳代の男性で高い。50歳代以上の病気遭難は男女合わせると56名だが、そのうち29人が死亡。その全てが男性である。
これらに比較すれば道迷いは、数は多くてもリスクはあまり高くない。しかし毎年数件の死亡を出している。また、最終的に滑落・転落に至った事故は道迷いには分類されていないが、記述された経緯から拾い出すと、高山ではその割合は決して低くない。道迷いの場合、それ自体が問題というより、そこで冷静さを失い、けがのリスクを高めていると思われる。また道迷いの原因の多くは地理不案内、つまりはナヴィゲーションスキルや地図利用の問題だと思われるが、その他にも日没、パーティーの分離など、も多い。道迷い遭難の減少のためには、ナヴィゲーション技術だけでなく、登山についての総合的な対策が必要だと思われる。