さすがに10月に入ると、「スポーツにふさわしい季節」になりました。10月も「飯能マウンテンオリエンテーリング:チャンピオンへの道」、タイへのアジア選手権サポート、全日本大会、読図講習会と、ナヴィゲーション満喫の月となりました。飯能マウンテンオリエンテーリングは、私のオリエンテーリング生活50周年記念の最後のイベントとなりましたが、参加者にも渾身のコース設定を楽しんでいただけたようです。全日本大会へは二日間でのべ2000人を超える参加者があり、日本屈指の難度を持つ「望郷の森」テレインを堪能、あるいは苦しめられたようです。
夏のマスターズ出場により、自分とライバルの距離が分かったことから、日本ではM21Aが仮想ライバルであることがはっきりしました。このクラスで上位が狙えるなら、M65でも上位が狙える。彼らに対するラップの分析は、やるべきことを明確に教えてくれる。身近な環境で常に敏感なフィードバックを受けることができるのはマスターズの特権ですから、それを利用しない手はありません。私自身も全日本ではM21Aに出ました。パフォーマンスとしては反省の多いレースでしたが、集中と緊張を味わえるいい練習ステップとなりました。
本格的なナヴィゲーションスポーツシーズンも始まります。1月下旬の当法人のフラッグシップイベントである有度山トレイル三昧のエントリーもスタートしました。参加者、運営ボランティア、どちらも募集中です。
詳細は「現在・今後の活動のご紹介 」からご覧いただけます。
<主催事業>
<他団体による主催(M-nop協力・村越の講師参加等)>
10月5日は、村越のオリエンテーリング生活50周年記念飯能マウンテンオリエンテーリング:チャンピオンへの道、を開催しました。この大会は、オリエンテーリングが競技的に大きな発展を遂げた1975年前後において、メッカのように大会が開催された場所であり、村越がオリエンテーリングを始めたばかりのころに親しんだ飯能周辺の森をつないで行われたマウンテンオリエンテーリングです。
コースは、村越がまさに50年前(1974年)の4月29日に初めてパーマネントコースでオリエンテーリングをした加治丘陵東側からスタートします。その後、1976年に初めて最上位クラス(H21A?)で優勝した加治丘陵西側を通過します。このエリアはオオタカの巣が見つかって以来、森の中でのオリエンテーリングは実施することができなくなりました。駅からのアクセスもよく自然度の残された森だけに残念でした。
その後は、1975年に第1回全日本大会が開催された七国峠を通過します。この大会は私がオリエンテーリングを始めた年度末に開催されました。中学生ながら地図の美しさと繊細さには、初期のオリエンテーリングを支えた人々の大会に賭ける思いを感じることができました。作図者の佐藤綱一さんはみかけは冴えないおじさんだが(この表現は、「永遠の0」で零戦のエースパイロットの凄みを引き出す効果的な形容なので、敢えて使います。)、彼の描き出す地図は私たち初期のオリエンティアには憧れであり、目標でもありました。
その後、大胆なルートチョイスで通過する朝日山は、全日本大会の徒歩オリエンテーリングの部門でのテレインでしたが、今ではほとんどが住宅地と化しています。大胆なルートチョイスはその賜でもあります。
さらに、1975年に日本人が初めて作成した通行可能度入りの衝撃の地図「多峰主山」を通過します。この地図は、地元飯能の若者たちのクラブであった「みちの会」(現在でも活動しています)の中核にいた安藤尚一氏が作成したものです。素朴は筆致ですが、3色で通行可能度を表現しようとした野心的な地図でした。
多峰主山から、コースは一旦高麗峠に入ります。この地図も佐藤綱一氏の手になるものですが、日本人の手による本格的オリエンテーリング専用地図です。1974年9月に開かれたはじめての東日本大会は、私にとっても初めての本格的オリエンテーリング大会でした。
このように、今回のテレインは村越にとって懐かしいだけでなく、黎明期のオリエンテーリングに重要な役割を果たしたテレインです。そこで作られたオリエンテーリング地図には彼らの魂が籠もっているといっても過言ではありません。そう思うと、恥ずかしい地図は準備できない、恥ずかしいコースは用意できない。そんな思いで準備した大会となりました。イベントを通して、50年前の先人たちの息吹を伝えられた大会でした。