去る7月29日にNHKのEテレ(教育テレビ)地球ドラマチックでロンドンのタクシー運転手の試験の密着取材の様子が放送された。ロンドンのタクシー運転手は合格するまでに難しい試験を課されることは有名だが、私たち空間認知の研究者にとっては一層なじみの深い職業である。2014年にノーベル医学・生理学賞を受賞したのがロンドンカレッジユニバーシティーの神経生理学者オキーフの研究
は、脳による空間認識のメカニズムの解明であった。最初はネズミの脳にある海馬に、特定の場所にいるときに活発に活動する神経細胞があることを発見し、それを場所細胞と名付けた。その後の研究で、場所が分かる背後には、どの向きに向いているかを感知する細胞や空間の距離を把握する細胞があること、あるいは離れた場所にある障害物からの方向と距離に応じて活動する境界ベクトル細胞が
あるといったことが解明された。空間認知の基本的なメカニズムを明らかにする画期的な発見だった。
オキーフ一門で風変わりな研究をする女性研究者がいた。彼女の名前はマクガイア。マクガイアはロンドンのタクシー運転手を対象に研究をしたのだが、MRIを使ってロンドンのタクシー運転手の海馬は大きく、しかも経験年数によってその容量は大きくなることを発見したのだ。同じロンドンの運転手でもバスの運転手では経験年数による海馬の容量の変化は見られなかった。かつては生後は脳の
神経細胞は減少するばかりだと思われていたが、1990年後半から神経細胞が新生するという知見が確立しつつあった。相関研究ではあるが、特定の脳の使い方とその影響を示したという点でもこの結果は興味深い。自分で経路をプランニングすることが、海馬を活性化させ、それが海馬の神経細胞の新生に影響しているのだろう。
この研究成果を読んだ時は、いくらなんでもカーナヴィなども発展した現代都市で、脳の変化が起きるほどの仕事なのだろうかという素朴な疑問が私にはあった。だが、この番組を見て、その疑問は氷解した。タクシー運転手の試験は4段階にも及ぶ厳しいもので、受験者は平均8000時間もの学習を行うという。ロンドンの街にある10万ものランドマークを憶え、またそのランドマーク間の経路を正しく再生できなくてはならない。面接試験で見事にいくつもの通りを通過して目的地までのルートを回答する受験生や、反対に頭が真っ白になって失敗する受験生の様子が、番組では描き出されていた。作業は高度な空間記憶と、それを検索し結びつける力を要求する。これだけの課題を解決できる脳に、なんらかの変化が起こっていても不思議はない。
最終試験に残るのが3割という難関であり、合格すれば尊敬を受けるブラックキャブの運転手になれる。数年前に失業し、自立した生活への再起をかけた中年男性、下町で育ちで、けんかで学校を何度も追われて今はブラックキャブの整備士をしている男性、あるいは20年以上前に幸福になりたくてコソボからやってきた男性受験者、いずれも人生の再起を賭けて莫大な時間を受験のために費やして
いる。失業後4年、見事試験に合格し、はじめてロンドンで客を乗せた男性運転手の様子が最後に映された。伝統によれば開業後最初のお客からは運賃を貰わないのだそうだ。そう告げる彼の誇らしげな様子が印象的だった。