2003年に上梓した空間認知関係の本の文庫化にあたって、ナヴィゲーションや空間認知に関するこの10年の文献をフォローしてみた。2005年に世界選手権を主管した前後から実践活動に忙しくなってしまって、研究の先端に全く追いついていなかった。それを取り戻す、いいチャンスでもあ る。
この10年間に、この分野は大きな進歩を遂げた。特に著しいのが、神経生理学的な研究である。脳の海馬という場所に空間情報を符号化する機能が (少なくともラットには)あることはすでに1970年代に分かっていた。2000年前後から、人間においても海馬が空間認知やナヴィゲーションと 深い関係を持つという知見が、fMRIのような非侵襲的方法、脳機能に障害を持つ患者のデータや、個々の神経の活動を観察することでも得られた。 複雑な街路とそれに関する厳しいテストで知られるロンドンのタクシードライバの海馬が大きいというマグワイアらの研究は、そのわかりやすさもあっ て、一般にも知られた研究成果となった。
海馬には、「場所細胞」という特定の場所に対して反応する細胞があるだけでなく、海馬とその周辺の脳領域に、特定の方向に向いている時に反応す る「頭方位細胞」、遠くにある区域の境界の方向と距離に反応する「境界ベクトル細胞」、格子状の場所に対して反応する格子細胞、さらには景観に反 応する景観細胞、といった空間の諸要素に対応する神経細胞があることが明らかになった。これらがどのような入力を得て、全体としてどのように機能 し、空間の記憶やナヴィゲーションが可能になっているかはまだ明らかになっていない。
一方、動物のナヴィゲーションに関する研究も1990年代までの成果は、1996年に発刊されたJournal of Experimental Biology (199巻)に詳しく紹介されているが、その後も多くの研究の蓄積があった。長距離を移動する渡り鳥、ウミガメ、魚などのナヴィゲーションは、不思議な能 力として捉えられてきたが、鳥に関しては地磁気だけでなく、星座や太陽の偏光をコンパス代わりにするといった知見が得られている。それと同時に、 目標地点のそばでは、よく目立つ目印が利用されていることも明らかになった。
目印の利用に関しては、ハチやハエの一種では、目標地点のそばで振り返ってジグザグに移動する行動が見られることから、目標の外観についてのsnapshotが記憶として蓄えられ、目標地点に再訪する時に利用されていることが分かっている。森に棲むアリの一種にも、振り返って目標を確 認する行動が見られる。経路を振り返ることがそれを逆にたどる際に役立つことは、実験的にも示されているし、方向オンチの人へのアドバイスにも利 用される。アリは誰からアドバイスを受けたのだろう!?
領域によって研究方法は違うし、対象も違う。だが、それらには一定の共通性がみられる。たとえば、文化人類学的な研究からは、島影が見えない海 域で長距離の航海をする人々は、架空の島を使って、航路を取り巻くような図形を思い浮かべると同時に、自分のいる位置をやはり見えない(あるいは 架空の)島の方角を使って表現する。もし境界ベクトル細胞が場所細胞の発火をコントロールしているとするなら、この方法は、自分の居場所を表象す るより原理的な方法であると同時に、目印が利用できない環境での生理的にも基盤を持った有効な方法である。あるいは、ハチのsnapshotによ るナヴィゲーションは、小惑星探査機が、地球から3億キロの彼方で100m程度の精度で小惑星に近づく時の方法に似ている。場所を明確に同定する もののない空間内でのナヴィゲーションを限られたリソースで行おうとすると、この方法がもっとも有効なことが、種と移動距離を超えて同じ方法を採 用させることになるのだろう。人や動物がどうやってナヴィゲーションをするかは、環境と可能な神経生理的なメカニズムの相互作用の中にあるのだろ う。
先日、大島のロゲイニングに参加した時、特徴のない裏砂漠の中で、小さな目標地点に向かう時、無意識のうちに、周囲に見える外輪山の見えを利用 して自分の位置を確認しながら、ポイントに近づこうとしているのに気づいた。ハチとはやぶさに、同じナヴィゲーターとしての同志意識を感じた。
大島の裏砂漠で、ハチかはやぶさになった気分で、チェックポイントをめざす。