最近なるべく方向音痴番組に出るのを控えていたのだが、うっかりして出ることになってしまった。お相手してくれたのは地図を見るのが苦手という主婦「八百幸」さん。おいしいパンには目がないのだが、地図が読めないがために、新規開拓もままならないという。そんな八百幸さんに地図読みの極意を教えるのが番組での僕の役割。それはそれで新鮮な体験であった。
駅前で出会って地図を渡して、ルートを考えてもらう。彼女の地図読みは、「地図が苦手」とはとても思えないものだった。ルートも一部修正したが、無理にわかりにくい直進ルートをいくのではなく、分かりやすい街路を通るものを選択した。出だしもスムースだった。もっともこれは、僕が無意識のうちに自分で整置してしまい、うっかりそのまま地図を渡してしまった影響が大きい。目的のパン屋や駅の南側にある。ノースアップで地図を渡されていたら、多分間違えていただろうとは彼女の弁。
「地図(そのもの)を読む」ことに関して、彼女には何の問題もなかった。問題があるとすれば、地図上のコンビニやファストフードといった些細な目標物にこだわって、それが見えないと不安になってしまう点だった。彼女は「地図で不正確だから」と言う。その通り。いやむしろ現実を縮小した地図は「不正確」の塊だ。地図がほんとうに「現実通り」だったら、それはもはや地図としての用をなさない。そんな寓話的なショートストーリーが実際にある。何が不正確で何が頼れるか、それを知ることが地図を(現実の中で)読む、そして使う上で不可欠なのだ。
そう教えながら、3月に奈良女子大に身体運動学のセミナーに出向いた時、昔からの研究仲間が、「地図は邪魔者ってことです」といった言葉を思い出した。実際に空間を経験し、それに基づき頭の中に記憶として作られた「地図」(専門用語でこれを認知地図と呼ぶ)なら、正確でありながらコンパクトで、自由自在に使える。だが、物理的実体として制約のある地図だからこそ、「不正確さ」について知り、整置で方向の間違いを押さえ、プランニングで危機管理をし、時には経験による知識で補い場所のイメージ化を図らなければならない。
彼の言葉に倣うなら、地図読みに習熟するとは、邪魔者である地図を飼い慣らすことに他ならない。