2000年の雪庇崩落事故以降中止されていた国立登山研修所(当時は文部省登山研修所)の冬山登山が再開されて2年経つ。今回は事故のあった大日岳を目指すこととなった。もちろんこの間、様々な安全策の検討と実施がなされた。今回の登山にも、雪氷と気象の専門家が同行した。2年前に暫定的に再開された舞台であった大品山と比較すれば、大日岳には長い尾根を登る必要がある。きわめて危険な箇所はないが、ナヴィゲーション的には挑戦的で、取り組む意義のある課題である。しかも登頂を目指した当日は薄い霧がかかり、時には視界が50m程度に下がる条件下であった。同研修所の専門調査委員として同行し、主としてナヴィゲーションの側面から学生の行動観察をさせてもらった。
講師から課せられていた前日のプランニングでは、危険箇所の把握はまずまずできていたが、ルートについて言語化させてみると、方向の情報はほとんど言及されない。「方向は気にしないの?」と尋ねると、「夏山ではコンパスを見るようにしているが・・・」という。道を辿ることのできない冬山こそコンパスを見るべきなのだ。コンパスの利用と方向への意識は表裏一体だ。期せずして、その不十分な実態を知ることができた。冬山ならではの各種の装備、そして操作性を下げる冬用の手袋などもナヴィゲーション用具の利用を阻害しているかもしれない。
当日は、講師から現在地の確認を何度か求められていた。全く分からない訳ではないようだが、確信をもって「ここ」と言うには至らない。慣れない雪山を歩くので、足下を見がちなため、スカイラインを見ることができない。遠くの地形情報を使うことができないので、確信を持つことができない。雪の積もった冬山では、容易に先の地形を望むことができる。遠望できる地形を見てのナヴィゲーションは、冬山の「義務」でもあるとともに「権利」でもある。
方向に限らず、言語化の意識は低い。たとえば無線で今後の行動を報告するとき「尾根を下って、谷にでて・・・」と連絡してくる。これでは相手に正しく伝わらない。それはおそらく自分自身の未来に対しても正しく伝わっていないことを意味する(梅棹忠夫が、未来の自分は今の自分とは別人だからメモは丁寧に書くと語ったことを思い出す)。出発地点や方向を含めて、正確に記述できるようになることが必要だ。そのような記述をすることはナヴィゲーションのいいトレーニングになるのかもしれない。たとえば一人が固有名詞や数字を抜きにして、地図に書かれたルートを言葉にして、相手に伝え、相手がそのルートを地図上に書き表してみる。そんな伝言ゲームが、地図読みのスキルアップの役立つのではないだろうか。